●第2章 隆盛の日本レース界(1965〜1969)

1965年日本グランプリが中止となり、レース熱が冷めてしまう・・・はずはなく、同年、船橋サーキットで「全日本自動車クラブ選手権」(「船橋CCC」と略される)が日本グランプリの代替イベントという位置づけで行われました。
ここでは浮谷東次郎というレーサーが、自身のトヨタスポーツ800がトラブルから最後尾付近まで順位を落とし、そこからトップを走る生沢徹のホンダS600を猛追、ゴボウ抜きショーを演じてみせ、何と大逆転優勝をとげるという伝説を作って見せました。浮谷の猛追に合わせて客席からの拍手もウェーブのように移動、フィニッシュの瞬間、日本のレースで始めてスタンディングオーベーションが起こったとして語られています。
(ちなみに「船橋サーキット」は現在無く、その跡地はオートレース場とスキー場になっています。コースの一部は道路として残っているようです。浮谷東次郎はこの1ヶ月後鈴鹿サーキットでのテスト走行中、事故により帰らぬ人となってしまいます・・・その童顔に似合わない走りっぷりと実力、「靴が濡れるから」と草履足で表彰台に上がる温厚な性格、レーサーとしての活動期間が約1年半と短命だった、ということから、今も伝説のレーサーとして語り続けられています)

決してレース熱が冷めることはなかったのでした。


  



翌1966年、第3回日本グランプリが行われました。完成まもない富士スピードウェイに舞台を移しての開催となりました。
当時の富士(というか本来の富士)は、フルコースが右回り6Kmで、長いホームストレートの先に30度の傾斜角のついた第一コーナーがありました(通称「30度バンク」)。おなじみのピストル型レイアウトは、実は左回り用ショートコースとして使用されていました。

この第3回から、今まで排気量別に細かく分けていたレース区分を、4つにまとめての開催となりました。(フォーミュラ(エキシビジョン)、ツーリングカー、GTカー、グランプリ(スポーツカー)の4つ。前記の通りこの頃の日本ではフォーミュラーカーはまだ浸透しておらず、エキシビジョンレースとしての開催となりました)






























又、この66年には、同富士で「日本インディ」も開催され、日本で初めてインディカーが走りました。参戦ドライバーもジャッキースチュワート、グラハムヒル、ジムクラーク(マシントラブルで本戦は欠場)、マリオアンドレッティ(同左)といった、今や伝説となっているF1ドライバーを始め、ロイドルビー、ボビーアンサーといったインディ界のスーパースターも参戦するというビッグイベントでした。(ちなみに当時のF1ドライバーは「レーサーたるものカテゴリーを問わず出て勝ってナンボ」というプライドがあり、現在のような「他のカテゴリーに出てはいけません」という契約などは無い時代でした)

そしてこの頃、国の自動車メーカー整理統合政策(輸入自由化に伴って外国に対抗できるよう、自動車メーカーを統合させて力をつけさせましょうという考えからのようです)により、プリンス自動車は日産に吸収合併されてしまいます。




1967年、第4回日本グランプリも富士スピードウェイで行われました。前回同様の区分けでレースが行われ、メインのグランプリレースで、プリンスを吸収した日産が改良型R380で除むことになりますが、ヨーロッパ武者修行から「ポルシェ使い」となって帰ってきた、生沢徹が操るポルシェ カレラ6により、「リベンジ」されてしまいます。(該当する展示車が無いのでアッサリ目ですいません(笑))


一方、日本グランプリ開催の関係から話題の中心は富士富士となってしまっていますが、もう一方の雄である鈴鹿サーキットはというと、この時期は2輪レース路線の継続と、4輪では耐久レース路線を確立し、鈴鹿500Km、鈴鹿1000Kmといったシリーズを作りました。その中でも、フォーミュラーカーによるレースも細々ではありますが、継続して行っていきました。































1968年、この年から日本グランプリは「第5回〜」とはならず、「68日本グランプリ」という名称に変更され、引き続き富士スピードウェイで開催されました。この年はトヨタ、日産、タキレーシングチームによる「TNT」の対決と称され話題となりました。この年から排気量無制限のカテゴリー(今では考えられませんが)であるグループ7カーの参戦も認められたため、トヨタは3リッターV8エンジンを搭載したトヨタ7、日産は従来のR380に加え、シボレー製5.5リッターV8エンジン(!)を搭載し、エアロでは可変リアウイング(!!)を付けたR381を投入、タキレーシングは6.3リッターと5.8リッターのエンジン(!!!)をそれぞれ搭載したローラT70MKVを2台投入・・・と、本格的な「馬力戦争」に突入しました。当時はいかに排気量の大きいエンジンを積み込むことが出来るかがレースの分かれ目という、とってもスゴイ時代でした(汗)。
そしてレースがスタート、大排気量の車が第一コーナー「30度バンク」にフルパワーで突っ込んでいく・・・日産R381が栄光のチェッカーを受ける結果となりました。



  


翌69年、それまで5月3日に行われていた63年からの「日本グランプリ」は、開催日を10月10日に移し「69日本グランプリ」が開催されます。トヨタは排気量を5リッターに上げたトヨタ7を投入、日産は新型マシンである5リッターR382を投入か?と噂を流しておいて、実際は6リッターR382を投入する陽動作戦を展開!タキレーシングはポルシェから4.5リッター917と、908の提供を受け臨戦態勢をとります。しかしながら、レースは結局日産R382が上位を独占する結果となりました。

そしてJAFは、「世界的にはトップカテゴリーはフォーミュラーカー」を日本にも根付かせるべく、従来日本グランプリが行われていた5月3日にフォーミュラーカー主体の「JAFグランプリ」を行うことを決定します。2.5リッターフォーミュラーにより行われていたオセアニアの「タスマンシリーズ」のドライバーが招待され、それを三菱勢と「海外組」生沢徹が迎え撃つ!という図式による売りを狙いましたが、市販車と違いタイヤむき出しの「奇形」であるが故の馴染みの薄さがあり、この時点でもイマイチ盛り上がりに欠けるものとなっていました。


苦戦するフォーミュラーカーレースをよそに、ポルシェ、ローラなどの外国車を巻き込んでの主力自動車メーカーがガチンコ勝負を繰り広げ、際限なく加速するパワーウォーズにますますの盛り上がりを見せる日本グランプリ。入場者数も10万人を超える規模となり、テレビで生中継されれば視聴率をとれるだけのビッグイベントに成長しました。

しかし、その隆盛もいきなり終焉を迎えることとなります。それは本当に突然のことでした。(次のページへ続く。ちょっとじらします(笑))






※次章「フォーミュラーカーの台頭」は只今執筆中につき、いましばらくお待ち下さい

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トヨタ2000GTです。66年日本グランプリ3位を始め、左記S800同様この時期のレース史を語る上で外せない車です。この車も鈴鹿耐久シリーズでも活躍しました。現在も愛好家が多いのが特徴です。

ホンダS800です。68年日本グランプリGT−Tクラス優勝を始め、この時期のレース史には必ず登場する名車です。鈴鹿500Km、1000Km、鈴鹿12時間などの一連の鈴鹿耐久シリーズでも活躍しました。
同グランプリメインレースウイナーのプリンス自動車「R380」。打倒ポルシェを旗印にプリンス自動車がレースのためだけに作り上げた、日本初のレース専用車(プロトタイプカー)です。
レースは、プリンス自動車がこのR380を複数台エントリー、さらに国内初の本格的プライベーターであるタキレーシングチームが、ポルシェの新型車「カレラ6」を持ち込み、R380 vs カレラ6の抜きつ抜かれつのデットヒートとなりました。(カレラ6の展示がなかったのが残念・・・)
勝負の明暗を分けたのは給油システムと言われており、プリンス自動車がワークスの資金面での有利性を生かし、重力を利用した給油機器を持っていたため20秒程度で済ませたが、タキレーシングは1分近くを要し、焦って追撃しようとしたところスピン、車を壊してしまいカレラ6はリタイアとなったようです。
そしてこの11号車が見事1位でフィニッシュ!国産レースカーが外国車に初めて勝った瞬間でした。
実際、まだポルシェとの性能差はあったようで、前記のポルシェ904打倒を考えて車を作り上げたが、新型カレラ6が出てきた焦った・・・というような当時の関係者のコメントも残っています。
ちなみにこのR380のエンジン設計が、後にスカイラインに「移植」され「スカイラインGT−R」となります。前記「スカG」共々、GT−Rの直系のご先祖様ということになりますね。

■「Challenge to The Top 日本のグランプリ史」写真館


























































































































































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