2005年F1日本グランプリ開催期間中、鈴鹿サーキットの一角で行われていたイベントの様子です。
折角なので、簡単に日本のモータースポーツ史となぞりながら、写真を紹介していきたいと思います。
昔のレース事情入門編としてもさることながら、今のレースしか分からないという方は、これら過去行われた出来事の積み重ねが、今のモータースポーツ隆盛に繋がっているということを、心のどこかに留めて頂ければ幸いです。


●第1章 日本グランプリの始まり(1963〜1965)
























前記の通り、日本で初めてのサーキット「鈴鹿サーキット」が1962年に完成します。そして翌63年、「日本グランプリ」という名称で、日本初の公式レースが鈴鹿サーキットにて行われることになりました。
当然やることなすことが初めてだらけ、見切り発車的に行われる格好となり、自動車メーカー各社も本気で取り組むことができず、参加するレーサーへ車を支援するという「様子見」の状況でした(今で言えばプライベーターへのサポートといった感じでしょうか)。
レースは排気量ごとのクラス別にレースが行われました。当時はレースカーというものは無く、市販車にゼッケンを付けて走らせるような感じで行われました。
























この日本グランプリ、予想に反した盛り上がりを見せ、レース自体は成功を収めました(イベント運営自体はいろいろ問題があったようです)。実際、比較的力を入れて臨んでいたトヨタは、複数のクラスで優勝を飾ることが出来、それを車の広告に使って反響を呼んだりもしました。そして各自動車メーカーは悟りました。「レースは金になる」・・・


  



第2回日本グランプリは、1964年同じ鈴鹿サーキットで行われました。第1回目とは一転し、国産メーカーが力を入れての参戦(つまりバリバリのワークス参戦)となり、大変な盛り上がりを見せました。この時も排気量別にレースが行われ、メインレースは「世界的に見てトップカテゴリーはフォーミュラーカーである」という考えの下、「JAFトロフィー」という冠が付けられた1.1リッターフォーミュラーカーによるレースが行われました。しかしこの時点でフォーミュラーカーに熱心なのが三菱のみで、さらには乗用車に比べ「奇形」であり、一般になじみが薄いということもあり、そのメインレース自体はあまり盛り上がらず、下記「GT−U GTカーレース」に注目が集まり、今に伝説となっている盛り上がりを見せました。

























































そして1965年に第3回日本グランプリ・・・となるはずでしたが、日本のレース誕生間もない時期ということもあってか、運営上のトラブルや利害関係、契約の問題等が重なり、同年開催は中止となってしまいました。さあ、日本のレース界に未来はあるのか、この先どうなってしまうのでしょうか!!!(しらじらしい前ふりですいません(笑))


次章「隆盛の日本レース界」へ



ミニカーとF1の店FORZA    チケット購入は電子チケットぴあ    F1GP生中継は⇒スカパー!初期費用無料

左のスカG伝説に一役買った「ポルシェ904」になります。GT−Uレースに出場するに当たり当然大本命と目されましたが、予選時にクラッシュを起こし、決勝出場は絶望的とも言われました。
しかしあきらめず徹夜での復旧作業を行い、見事ギリギリで修理が間に合い、決勝出場を果たして優勝しました。
ボンネットからヘッドライトにかけての黒いラインは、その修理の名残であるガムテープかと思われます。

プリンス自動車が当グランプリGT−Uレース対策として、自社のスカイラインGTをロングノーズに改造し、パワーのあるグロリア2000cc6気筒エンジンに乗せ替えた「スカイラインGT−B」です。(本来は1500cc4気筒)
小柄なボディーに似合わない速さを持っていたことから「羊の皮をかぶった狼」と形容される存在であり、さらにここまで改造したにも関わらず、レースはまだまだ外国との力の差は歴然で、右のポルシェ904の独壇場となりました。
しかし、ポルシェが周回遅れに引っかかっている間に追いつき、何とポルシェをオーバーテイク!約半周ほどトップとなりました。その後ポルシェに抜かれはしたものの、国産車が初めて外国車に勝った(一瞬だけ)車として、「スカG伝説」となって語り続けられています。
(このオーバーテイクには、いろいろな裏話も伝説として語られてはおりますが・・・ここではあえて語りません)

又、この車をドライブした生沢徹さんは、「プリンス7人の侍」と呼ばれるプリンスドライバー7人集の1人で、プリンス統合(後述)後ヨーロッパへ武者修行に出かけ、「ポルシェ使い」として日本グランプリに戻ってきます。
1966年にはイギリスF3、そしてF2へステップアップと、元祖「F1に最も近い男」として期待されましたが、チームの不振、資金難などに見舞われ断念することになります。その後日本に戻り、富士グランチャンピオンシリーズ(後述)などで活躍、78年に一線を退き、チームオーナーとなり、F2では中嶋悟を育て上げ、チーム全日本F2選手権3連覇(3年目はジェフリースがドライブ)という偉業を達成します。
その後もご自身でレースに出場されたりと、レース界でご活躍中。

第一回日本グランプリメインイベントとして行われた「海外招待スポーツカーレース」に出走、表彰台を独占したロータス23。この時のウィナーであるピーターウォーは、後にF1チームロータスの采配を任されることになります。

入り口に入った直後の掲示物です。

鈴鹿サーキットの一角で行われていました。ちなみにこれを撮影したのが木曜日なので、このようにガラガラですが、翌日以降は長蛇の列となっておりました。

■「Challenge to The Top 日本のグランプリ史」写真館


























































































































[PR]動画